昭和10年代、日中戦争とこれに続く第二次世界大戦のもとで民需産業は厳しい統制を受け、機械工業は軍需産業に組み込まれていきました。
1940(昭和15)年に山形市に設立された株式会社原田製作所(現ハッピー工業株式会社)はミシンテーブルの製造を主力としていましたが、昭和18年から木製プロペラや航空機用発動部品の製造を行うようになりました。このほか、多くの地元企業が軍需産業への転換を余儀なくされました。また、この時代には国策による軍需会社として航空機の下請工場が山形市、米沢市、鶴岡市など県内各地に設置されました。
加えて、戦時中に増加したのが東京などの大都市圏から山形県に疎開する工場です。昭和16年、東京芝浦電気株式会社が長井町(現長井市)にマツダ支社長井工場を設立、電解コンデンサーの試作を開始し、翌年から東芝長井工場としての生産体制を築きました。その後、戦争の激化にともない、大都市の工場設備や製造部門が山形県に相次いで疎開しました。
この時代に地元資本が軍需産業に再編され、独自の技術を持つ疎開工場がそのまま定着したことが、戦後の山形の機械工業の発展において大きな足がかりとなりました。
1931(昭和6)年 | 満州事変 |
1932(昭和7)年 | 酒田上水道通水 |
1936(昭和11)年 | NHK山形放送局開局 |
1937(昭和12)年~ | 日中戦争勃発/仙山線開通 |
1939(昭和14)年 | 山形県産業振興会結成 |
1940(昭和15)年 | 原田好太郎が株式会社原田製作所(現ハッピー工業株式会社)を設立 |
1941(昭和16)年~ 1945(昭和20)年 |
第二次世界大戦 |
1923(大正12)年に山形市に木型屋を創業し、その後、1927(昭和2)年に五百川鉄工所の協力工場として原田鋳物工場を創業。昭和15年には原田鋳物工場を法人化し(現ハッピー工業株式会社)ミシン部品製造を手がけた。戦時中は軍需産業への転換を余儀なくされ、木製プロペラや航空機用発動機部品の製造に携わるも、戦後まもなくの1946(昭和21)年にはミシンの第一号機を生産、その後海外にも輸出を行うなど生産量を拡大し、昭和20年代半ばから昭和40年代はじめまでは株式会社関屋製作所、東北精密工業株式会社などの同業者とともに山形県の機械工業の中核の役割を果たした。